「あつまれして〜」は私の宝物
「爺じ〜、あつまれして〜!」
と、孫が茶碗と箸を持って私のところに来る。
徐ろにそれを受け取り、お茶碗に張り付いたお米をかき集め(文字通り、あつまれ)少しお茶など入れて、二口くらいで食べられるようにしてあげ、
「はい、あつまれしたよ」
と、渡す。
「ありがと」と孫
「ごちそうさま」と孫
空いた食器を流しに下げて行く姿を、微笑ましく眺めている爺じ。
これが最近の我が家の食卓の風景
昔の日本の食卓の風景
お父ちゃんが
「こら!食べ物を粗末にするな!」
「ご飯は一粒も残さず食べなさい!」
子供達は、最後まで残すことなく食べたものだ。
お母ちゃんは、流しで洗い物をするとき、お櫃の底に残っている硬くなっているものや潰れたご飯粒を、自分の手で掬って最後まで残さず口にしたものだ。
今はどんな風になっているのだろう?
天理教の教祖「おやさま」は、「菜の葉一枚でも、粗末にせぬように」と教えられた。これは、単に節約が美徳であるという意味ではなく、親神様のご守護により与えられるものを決して無駄にせず、ありがたく頂戴する、という意味が含まれている。
約40年前の我が家の食卓
我が子には、教祖の「粗末にしてはいけない」という教えは身につけてもらいたい。しかし、食事は楽しくしたいから説教してはダメだ。
そこで閃いたのが、
「あつまれー」だったのである。
普段、無愛想な私だが、この時ばかりは満面の笑みで、
「あつまれーーー!」とご飯粒を集めるわけである。
子供達も笑顔でそれを見ていて、ホレッと茶碗を手渡すと、
「ありがと」「ごちそうさま」と続く。
食事の最後の一大イベント
箸の使い方も儘ならない子供達が
「あつまれしてー」
と、頼んでくる。
知らぬ間にこれが習慣化した。
このイベント、私は孫には教えたことはない。
しかし、二代にわたって伝承されている。
非常に嬉しい。
我が子達に感謝。
孫達にも感謝。
それに我が妻。
今だに、炊飯ジャーの釜にこびりついたご飯粒を、流しの前で食してくれている。
涙が出る。
今度は、妻の姿を後世にどう伝えて行くか。
教祖の140年祭前の喫緊の課題である。
私には、壮大な夢がある。
還暦を過ぎ、命に関わる手術を幾度か経験してきた。
人生のゴールはそう遠くは無いと思う。
身体を親神様にお返したあと、長男の孫辺りが成人した頃、この家に生まれ変わって来て、
「お父ちゃん、あつまれしてー!」
って言いたい。
我が家のイベントは代々。
教祖の教えは末代。
担当 M